おにがしま


映画批評家      鬼塚大輔      による映画評その他なんだかんだブログであります。
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「ハイ・フライング・バード-目指せバスケの頂点-」 (High Flying Bird, 19)

なんだかんだと忙しく、慌ただしく、このブログを見てくださっている皆さんには大変申し訳ないのだが、更新の頻度が随分と減ってしまっている。ちょっとした思いつきや感想を短時間で公開できるツイッターを使うことが増えている次第。

時間が足りなくなってしまう理由の一つにはNETFLIXというやつがある。NETFLIXオリジナルの新作ではがっかりさせられることも決して少なくはないのだが、スティーヴン・ソダーバーグの新作が観られて、しかもそれが「ハイ・フライング・バード—目指せバスケの頂点ー」のように面白い作品だったりするので、契約を打ち切ることができなくなってしまう。


プロバスケットボールのロックアウト(労使協定締結が滞った結果、リーグの業務が公的に停止になること)の期間中、顧客である新人選手のため、ロックアウト終結のために意外な動きを見せるスポーツ・エージェント(アンドレ・ホランド)を主人公とする物語。


ピーター・アンドリュースという変名で自作の撮影監督を務めることの多いソダーバーグが、この作品では実名で撮影監督をしており、「アンセイン」に続いて全編iPhoneで撮影している。「アンセイン」では、実験的にやってみたら、案外やれちゃいました的な面白さがあったが、「ハイ・フライング・・・」では、もうすっかり手慣れた感じで、のびのびと自由闊達に動き回るカメラが実に心地よい。名人の落語を聴いていると、なんども聴いた噺でも擽りでも、語りの調子そのものが気持ちよくてうっとりとしてしまうわけだが、「ハイ・フライング・・・」のソダーバーグの撮影、編集を惚れ惚れと眺めているだけでも90分の上映(?)時間は、あっという間に過ぎてしまう。


もちろん、話の内容も人間ドラマとして秀逸で、「オーシャンズ11」のようなトリッキーな語りがスポーツ・ドラマと巧みに融合している。


主人公を演じるホランド(この人は最近WOWOWで放送が始まった「キャッスル・ロック」でもなかなかいい)が若さに似合わぬ腹芸を見せて好演し、オーナー側の弁護士を演じるカイル・マクラクランも、いつもとはちょっと調子が違って面白い。この間「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」で生存確認をしたビル・デュークが、出番たっぷりで、この人らしいふてぶてしい味を久々に見せてくれているのも嬉しい。


「オーシャンズ12」は、ブルース・ウィリスが本人役で登場したり、ジュリア・ロバーツ演じるテスが、女優ジュリア・ロバーツに化けたりするメタ・フィクション的な作品だったが、ソダーバーグには、メタ・フィクションをテーマとしたような「フル・フロンタル」という作品もあり、「ソラリス」などもそうだが、「現実と非現実の壁、あるいは壁の不在」というテーマが多くの作品の根底にある。

「ハイ・フライング・・・」にもメタフィクション的な仕掛けが施されており、そのためだけでも、この作品がNETFLIXで製作された価値があるのだ。


劇場用作品復帰作「ローガン・ラッキー」は、まあ、こんなもんかな、という出来だったが、「アンセイン」、「ハイ・フライング・バード」の2作は、軽い調子で作った(後者は3週間で撮り上げたとの由)がゆえの軽快さがあって好ましい。ゲイリー・オールドマンとメリル・ストリープが共演している次回作にも大いに期待したい。








# by broncobilly | 2019-02-17 15:54 | 映画評

「ミスター・ガラス」(Glass, 19)

 「アンブレイカブル」、「スプリット」の続編。自らをスーパーパワーの持ち主だと信じる三人(ブルース・ウィリス、ジェームズ・マカヴォイ、サミュエル・L・ジャクソン)を'治療'しようと女医サラ・ポールソンがフィラデルフィアの精神療養施設に集める。だが、彼らのスーパーパワーは本当に妄想なのか?

まず、M・ナイト・シャマランのトレードマークになっている(実は、ある時期以降はそうではないのだが)どんでん返しに過度な期待はしないように。いくつかのツイストは用意されているものの、サスペンス/ミステリ映画にしばしば登場する程度のものだから。

「ミスター・ガラス」という作品の面白さは、ツイストにあるのではない。シャマラン独特の画面作り、演出のリズム、そして世界観にある。

スーパー・ヒーロー・コミックの内容は現実の世界の記憶であり記録なのだ、という「アンブレイカブル」のテーマが、当然この作品でも敷衍されているわけだが、それが更に進化し、深化している。

(映画という物語の世界の中での)現実で、テレビで「バットマン」(アダム・ウエスト版)で流れているという以外にも、シャマランは様々な仕掛けを施して、「ミスター・ガラス」作品世界の中で空想とされるもの、観客であるぼくたちが空想であると考えるもの、現実であると考えるものの境目を曖昧にしていく。いくつもの'世界'で繰り広げられる'物語'が幾重にも重なって、互いに浸食していく。

ジャクソン(ニック・フューリー)とマカヴォイ(プロフェッサーX)が対峙する場面でジャクソンが'avenge'という言葉を口にするのは、意図的なものだろうし、物語の大きな要素となる超高層ビルの名前が'オオサカ・タワー'となぜか和風なのは、'スーパー・ヒーロー'、ジョン・マクレーンが大暴れした'ナカトミ・ビル'を意識しているのだろう。'オオサカ・タワー'が表紙になっている雑誌には'True
Marvel'という文字が躍っている。

出演俳優たちが別の'宇宙で'体現してきた(アニヤ・テイラー=ジョイは近々「Xメン」に参加予定)スーパーヒーローたちの神話が融合して、「神話を信じろ」という(「レディ・イン・ザ・ウォーター」の中で明快に発信されていた)シャマランのメッセージが観客にまた突きつけられる。ジョゼフ・キャンベルは、すべての人が'英雄の旅'を生きられると訴えた。シャマランは、すべての人が'スーパーヒーロー'に成れると語りかけてくる。

ただし、シャマランは、ぼくたち観客の一人一人が空を飛べるとか、不死身になれるとか、変身できると言っているわけではない。それはあくまでメタファーであって、自分の可能性を信じろ、と言っているのである。そして、可能性の芽を摘み取ろうとする大きな力があるなら、それに抗え、と言っているのだ。

「スブリット」のラストで、「アンブレイカブル」の物語が続いているのを知ったときの驚き、喜び、そして次の作品への大きな期待が裏切られることはなかった。

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# by broncobilly | 2019-01-19 16:47 | 映画評

年末大掃除(2)

 今日はNETFLIXで観た作品のことを書くつもりなのだけれど、その前に「アリー/スター誕生」のことをもう少し。

 今朝の朝日新聞/文化文芸欄に石飛徳樹氏が「ボヘミアン・ラプソディ」大ヒットと、「アリー」の意外な不振について書いておられる。
 で、つらつら考えたのだが、ぼくが「アリー/スター誕生」という作品が好きなのは、日本でのスタートダッシュ失敗と関係があるような気がするのだ。
 つまり、昨日のポストにも書いたリアクション・ショットのことである。

 繰り返しになるがブラッドリー・クーパーはどのステージ場面においても、曲を聴いている観客や登場人物のリアクション・ショットをインサートしない。
 クライマックスで亡き夫を偲びアリーが熱唱する場面でさえも。
 ここで観客席にいるアリーの父やジャックの兄、親友が涙を流したり、微笑みながら聴き入っているショットを挟み込めば、観客は気持ちよく感動し、物語は「いい話」として無事に着地する。
 このあたりは「ボヘミアン・ラプソディ」が実に効果的に、あざといほどに使っている。そして観客を気持ちよく泣かせ、感動させる
 だがクーパーはそれをしない。パフォーマンスを徹底的に撮し、聴かせ、最低限必要な回想ショットだけを使う。ガガの圧倒的なパフォーマンスに集中することを観客に強いるのである。
 実は昨日「午前十時の映画祭」で「パリの恋人」を(三度目になるが)観た。オードリー・ヘップバーンが最も美しく可愛らしく撮れているのはこの作品だと思うが、率直に言ってミュージカルとしてはスタンリー・ドーネンの他の傑作たちよりは落ちると思う。それでも充分に楽しい。
 そして感じたのは、出演者のパフォーマンスを徹底的に、最も効果的にスクリーンに定着させようという強い信念である。演者が最高の芸を披露しているのだから、視点を他に逸らしたりせずに、その芸をがっつりと見せよう、聴かせようという揺るぎない姿勢である。黄金期のミュージカルは、それが当然だったのだ。

 石飛氏は朝日の記事の中で「アリー/スター誕生」の'大爆発'に期待を寄せておられるが、ぼくも「ボヘミアン・ラプソディ」を楽しんだ人たちに、音楽と映画の関わり方の別の側面を堪能してほしいと思う。

 でもって、NETFLIXです。

 なんと言っても、やられた!のは、アルフォンソ・キュアロンの「ROMA/ローマ」。
 七〇年代のメキシコ・シティを舞台にした、ある中流一家と、家政婦クレオの物語。キュアロン自身の仮定がモデルとなっているとのことで、クレオに相当する家政婦はまだキュアロン家にいるのだとか。

 まず、冒頭から水、水に映った映像にやられてしまう。
 「トゥモロー・ワールド」、「ゼロ・グラビティ」ほどトリッキーなカメラの動きはないのだが、視点はほぼ横移動。どの構図も完璧に近く、モノクロの深みのある映像と相まって、うっとりと眺めてしまう。

 不気味で不穏な政情が背景に見え隠れするものの、そんな中でも平凡な一家と、家政婦の日常と非日常は続いていく。

 「トゥモロー・ワールド」で出産場面をまともに描写していたのには度肝を抜かれたが、やはりキュアロンは出産/命の誕生という営みに特別な興味があるようで、「ゼロ・グラビティ」でもサンドラ・ブロックが宇宙から脱出する場面には、出産/命の誕生というイメージが重ねられていた(ちなみに、「ゼロ・グラビティ」を観たときには「宇宙からの脱出」に似ているなあ、と思ったのだが、「ROMA」には登場人物が「宇宙からの脱出」を観に行く場面がある)。

 「ROMA」にも圧巻の出産場面があるのだが、これは死産に終わる。しかし、この後出産のイメージはもう一度別の形で繰り返され、それが'母'への救済となる。

 政治的不穏、家族の中の悲劇、死産など、暗い出来事が次々と描かれるのだが、しかしぶっ飛んだユーモアも散りばめられていルのが素晴らしい。'不可能なポーズ'のギャグ最高!

 バカンス先での夕食の席で、父が家庭を捨てたことを初めて子どもたちに告げる母。当然、どんよりとなる子どもたち。ウエイトレスがやってきて「デザートは、いかが?」
 こんな雰囲気でデザート食べるわけないだろ!と思う。パッと画面が切り替わると、レストランの外に出た一家が、みんなでアイスクリームを舐めている。その背後では結婚式の真っ最中。
 この場面は、本当に素晴らしい。悲劇と喜劇の見事な融合。この一家にとっての一つの'終わり'はまた'始まり'でもありうる。「生きる」の'ハッピー・バースデイ'を思い出した。
 人生は悲劇だけでも喜劇だけでもない。どちらかが交互に、あるいは同時にやってきて、そして終わるまでは続くのだ。

 横移動のみだったカメラが初めて上昇していくことで'希望'を提示するラストまで、ただ惚れ惚れと画面を見つめるのみであった。

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 スティーヴン・キングが「悪評に騙されるな。必見!」とツィートしていたのが「バード・ボックス」。

 'なにか'を見てしまうと精神に異常をきたす病(?)が蔓延し、文明が崩壊した世界。未発症者たちと共に一軒の家に籠城することになる妊娠中のサンドラ・ブロックの姿と、それから時間が経った後、サンクチュアリを目指して、二人の幼子と旅をするブロックの姿が交互に描かれる。

 別に傑作だとは思わなかったが、確かに言われているほど酷い出来でもない。

 期待しすぎたせいか、なんだかもったいぶってるなあ、と感じた「クワイエット・プレイス」よりは、自分的には楽しめた。

 「オーシャンズ8」つながりでゲスト出演したと思しきサラ・ポールソンが早々と姿を消してしまうのには拍子抜けしたが、籠城組の一人であるジョン・マルコビッチが披露するアクの強い芝居を久々に堪能できた。「ボヘミアン・ラプソディ」の'マイアミ'役が良かったトム・ホランダーがひょっこりと顔を出すのも、ポイント高し。

 「クワイエット・プレイス」では、モンスターの姿が例によって例の如きC.G.I.モンスターで描かれた途端に、あーあ、となってしまったのだが、「バード・ボックス」は感染者が描くスケッチとか、ザワザワっと立ち上る枯葉とか、最後まで間接的に描写されるのが良かったっす。

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 「ブラック・ミラー/バンダースナッチ」。視聴者がリモコンで物語の進行をところどころ選択していくインタラクティブ・ドラマ。ぼくは九〇年代でRPGゲームをするのを止めてしまったけれど、当時でもこのくらいのメタ・フィクションは存在していた。

 ぼくがメタ・フィクションで最も衝撃を受けたのは「新スタートレック」の「甦ったモリアーティ教授」のラストのセリフだったのだが、それを越える衝撃を「バンダースナッチ」から感じることはなかった。

 多くのRPGがそうであるように、「バンダースナッチ」も、視聴者/プレイヤーの完全自由意思というわけではなく、ある一定の方向に誘導されるように作られている。

 それでも、それぞれの選択によって変わってくる物語の展開は面白いし、ゲームではなくドラマで「第4の壁」を破ろうとする試みは興味深い。「バンダースナッチ」を面白くしているのは'自己批評性'だが、今後の手のドラマが増えていくとして、毎回'自己批評'というわけにもいかないので、どこにRPGとの違いを探っていくのかがポイントだと思う。

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# by broncobilly | 2018-12-30 10:11 | 映画評

年末大掃除(1)

l いやあ、参った。年の瀬に入ってから、身辺が信じられないほどバタバタとしてしまい、かなり凹んでます。年越しだけは平穏に…とは思っているのだが。

 映画は観てますよ。でも、プログの更新はすっかり滞っております。なんとかせにゃ。
 というわけで、溜まった批評というか感想というかを、年内に小出しにしていきます。

 「へレディタリー」、「来る」。タッチの全く違う二作品なのに、家族の病理というものが根底にあって、じわりじわりと真綿で首を絞めるように観客を揺さぶっておきながら、クライマックスで、「うわ〜!
そっち方面へぶっ飛んでいくんですかあ?!」というところは、なんだか似ています。どちらも、とても'楽しかった'。

 「来る」は、クライマックスがクリスマス・イヴだと知らずに、たまたま十二月二十四日観に行けたのもよかった。終わったあと、Jホラーのファンらしい若者二人連れが「「劇場霊」よりはマシだよな」、「そうそう」と、お互いに言い聞かせるようにして退場していったが、いや、「劇場霊」と一緒にしちゃ、いくらなんでも気の毒だろ。

 「ブレイン・ゲーム」と「マンディ・地獄のロード・ウォリアー」を同じシネコンの同じスクリーンで梯子。

 「ブレイン・ゲーム」のアンソニー・ホプキンス若々しいなあ、と思ったら製作されたのは2015年なのですね。製作会社の倒産やらなんやらで公開が遅れたらしい。

 もともとは「セブン」の続編として、ブラッド・ピットが演じていた刑事が超能力を身に付けるという物語、タイトルも「エイト」として製作される予定が、デヴィッド・フィンチャーが激怒したため(当たり前だ)、スタンド・アローンの作品になったとの由。

 ブラッド・ピットの代わりがアンソニー・ホプキンス。最初はブルース・ウィリスが予定されていたとのこと。物語の後半になってから朦朧と登場する、やはり超能力者のシリアル・キラーがコリン・ファレル。

 そう言えば「ジャスティス」(02)でのウィリスは、どう見てもミスキャストで、最初はホプキンスの予定だった。ファレルは、念願叶ってホプキンスと共演か。いや、「アレキサンダー」(04)もあったな。などと見物しながらも、イロイロと考えてしまうのは、ずいぶんと無理のあるシナリオだから。

 カーチェイスの場面で、敵が奪ったタクシーのナンバーやら、進路やらを予知できるホプキンスが、自分の乗る車が激突/横転/大破という肝心のことを予知できなかったりなど、やたらとご都合主義のところが目立つ。
 アフォンソ・ポヤルト監督は、C.G.I.を駆使して、凝った映像で観客を物語に引き込もうとしているようだが、なんだか独りよがりな感じがする。

 安楽死などの倫理的なテーマを扱っているのだが、これが超能力者同士の対決という作品のキモと噛み合っておらず、かけ算にならずに引き算になっている。

 とは言え、ホプキンスの演技はやはり見応えがあり、ファレルも上手く演じている。出し遅れの証文みたいに公開された分だけ、ジェフリー・ディーン・モーガンやアビー・コーニッシュなど、現在それなりにビッグになった人たちが見られるのも楽しい。

 年の瀬の劇場で、出来損ないだけど、見るべきところがないでもない作品をのんびりと見物するのも、映画ファンの喜びではある。

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 で、そのまま退場せずに(劇場のお兄さんには許可を得ました)「マンディ」。狭い劇場に全員単独の男性客五人(含む自分)。二人が上映時間の半分もたたないうちに退場。一人は始まって間もなくから最後まで、爆睡しておられました。

 カルト集団に最愛の女性を焼かれたニコラス・ケイジの復讐劇、と書いてしまえばそれまでだが、これ八〇年代の米国ですか?!
それとも寝床か別の惑星での話ですが?!
てか、この世ですか?!という感じで、毒々しい赤と黒を基調とした画面、たぶん作っている方には理解できているのであろう場面転換、登場人物全員異形という作品で、半端な役者が主役を演じると世界感に埋没してしまいそうなところだが、そこはどっこいニコラス・ケイジ。埋没するところか、久々にエネルギーを爆発させている。
 こちらは作品の世界間とケイジの存在感が、見事なかけ算になっている。

 こんなトンデモナイ作品を作ったのが、がっちりとしたアクション映画を得意としたJ・P・コスマトス監督の息子パノス・コスマトスだというのが意外だが、注目しておくべき異才であることは確かであろう。

 ラスト・ショットでは、軽くトリップできました。

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 「アリー/スター誕生」も観てきたよ。

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 これはもう、ブラッドリー・クーパーの、がっちりとした演出を楽しむ映画。どの場面も全く奇を衒わず、正攻法であるのが見事。歌唱場面で、登場人物や観客のリアクション・シヨットをほとんど使わず、ステージをしっかりと見せることに専心しているのが「ボヘミアン・ラプソディ」と対照的で面白い。だらこそ、ラスト、ヒロインのパフォーマンスでのインサート・ショットが生きる。

 主人公二人が初めてで会う晩の出来事に音たっぷりと尺を取っているのも良いなあと思った。

 ガガの父親役がアンドリュー・ダイス・クレイというのもいいなあ。実際に、またたく間にスーパースターとなり、一瞬にしてその座から転がり落ちた(「フォード・フェアレーンの冒険」観た人〜?
はーい!)人が演じてるからこそ、名声に憑かれた、この人物に説得力が生まれる。

 ぼくは昔からサム・エリオットのファンなので、この人が実にいい役をもらってしみじみとした味を見せているのが、とても嬉しかった。

 キャスティングで言えば、クーパーがレギュラーの座を2シーズンでクビになった「エイリアス」(番組自体は5シーズン続いた)のレギュラーが二人出演しているので、クーパーは偉いなあ、と感心してしまったよ。
 運転手役のグレッグ・グランバーグと、療養施設場面に登場するロン・リフキン。
 Amazon Primeで久し振りに「エイリアス」を観ているところなので、同番組でクーパー演じるキャラに地獄の思いをさせるリフキンが、優しい後見人的な役で顔を見せる場面は、なんだか可笑しくて堪らなかった。


# by broncobilly | 2018-12-29 08:10 | 映画評

「バスターのバラード」(The Ballad of Buster Scruggs, 18)

 コーエン兄弟の新作は六つのセグメントからなる西部劇アンソロジー。
 コーエン兄弟の作品を観てがっかりさせられたことは一度もない(あっ、一度だけある「レディ・キラーズ」)ので、この作品にも期待していたのだが、期待を遙かに上回る出来。コーエン兄弟作品には最初から、相当ハードルを上げて対峙することになるのだが、楽々と越えられてしまいました、ハードル。

 大学生だった頃には、新潮文庫から出ていたフォークナー、ヘミングウェイ、スタインベック、オコナー、カポーティら、アメリカ文学の巨星たちの短編集を片っ端ら読んだものだが、「バスターのバラード」を観終わったとき感じたのは、傑作揃いの、しかし内容的にはバラエティに富んだ、出来の良い短編集を読み終わった満足感だった。

 喜劇的なものから、シュールなもの、本格西部劇、不気味なもの、胸を打つもの、それぞれのセグメントは上記すべての要素を持ちながら、そのうちの一つが特に強調されているので、多彩でありながら、統一感もある。
 そしてすべてのエピソードを「死」という一本の線が貫いている。

 Fresh Airでのインタビューによると、これはコーエン兄弟が初めて全編デジタル・カメラを使って撮影した作品で、デジタルの素材は最終的に画像を調節するので、撮影したラッシュを、毎晩その日のうちに確認する作業は止めてしまったのだという。デジタル撮影とコーエン兄弟は素晴らしい出逢いを果たしたといっていい。第一話「バスターのバラード」での、「ビッグ・リボウスキ」を想起させる飛翔のイメージや、最後の挿話「遺骸」での不気味な色使いも素晴らしいが、最終エピソード以外を除くすべてのエピソードに、西部の大自然(ロケ地はニューメキシコ)が完璧な構図で、そのまま額に入れた飾っておきたいような「画」となって、満ちあふれている。特に「金の谷」で人間同士の欲望と血にまみれた戦いをサンドウィッチのように挟む動物たちの姿は感動的だ。
 Netflixで配信されたものをPCやタブレットではなく、それほど小さくはないテレビモニターで観たのだが、これは劇場のスクリーンで観たかったなあ、と何度もため息が出た。

 「早とちりの娘」での幌馬車隊案内人と先住民たちとの戦いの場面に関しては、西部劇において、これほど本格的で迫力のある戦いが描かれたのは本当に久し振りと言っていいのではないかと思う。

 出演者たちは皆、個性派で好演しているのだが、「早とちりの娘」ゾーイ・カザンのユニークな個性とおずおずとした演技が心に残る。鼻のあたりがお祖父さんのエリア・カザンによく似ている。
 個人的には「遺骸」で、ソウル・ルビネック(「許されざる者」)、タイン・デイリー(「ダーティ・ハリー3」)、チェルシー・ロス(「人生の特等席」)が横一列になって駅馬車の中に鎮座ましましているのがツボだった。

 劇場公開されていれば、間違いなく今年のベスト・テンに入れたかった、いや、ベスト・ワンにしたであろう作品。

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# by broncobilly | 2018-11-24 14:55 | 映画評